NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」秀長公ゆかりの寺
大和大納言 秀長公と光秀尼の物語
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。主人公は秀吉公の弟君で、名君と謳われた秀長公です。
この秀長公の側室こそ、桃山時代に再興した興福院2世院主、光秀尼でした。大名と尼、本来添うことのない二人の運命的な出会いからご紹介しましょう。
光秀尼(1552~1622/23)は、大和の国人、秋篠伝左衛門の娘と伝えます。奈良の名所を紹介した『八重桜』(延宝6年〈1678〉)の興福院の項では、光明皇后の御忌日に法華寺を参詣した秀長公(1540~91)が、世をはかなんで法華寺に入寺していた興俊比丘尼(光秀尼)を見初めて郡山城に連れ帰り、一夜を過ごしたのち寺に帰したと記されます。

拠点とした郡山城(大和郡山市)
現代とは異なり、僧侶は男女を問わず仏の道に生きることが当然の時代であり、男女の情を交わすことは、すなわち戒律を犯すことにほかなりませんでした。戒律を破ることとなった興俊尼は法華寺にいられるはずもなく、母方の伯母、自慶院栄譽心慶尼が再興した興福院に身を寄せ、縁者の屋敷で娘を出産します。後日これを知った秀長公は、興俊尼と娘を城へ迎えました。こうして還俗した興俊尼は秀長公側室「お藤」として、新しい人生を歩み始めるのです。

秀長公の墓所「大納言塚」
郡山を大いに発展させ、領民に親しまれた秀長公でしたが、天正19年(1591)1月、惜しまれつつ世を去りました。さらにその4年後の文禄4年(1595)には養子の秀保も死去し、大和大納言家は断絶します。秀長公の死後、お藤は興福院に入り、2世院主智雲院藤譽光秀尼として興福院を継承しました。お家断絶の年には、側室としての立場をおもんばかってか、秀吉からは200石の知行地が寄進されています。元和8年(1622/23)、光秀尼は享年71歳でその生涯を閉じました。

奈良盆地北部に多い背光五輪塔で、
春日山麓で採石された安山岩で彫られている
近鉄尼ヶ辻駅の南東、奈良市尼辻中町(旧興福院町)の住宅街の一角に、興福院の江戸時代の墓所があります。60坪ほどの広さの墓所には、尼僧や興福院ゆかりの人々の墓が30基ほど立ち並んでいます。光秀尼の墓碑は入口にいちばん近いところにあり、小振りで黒みがかった舟形をしているので、道路からもすぐにわかります。あたかも秀長公を想うかのように郡山城のある南を向いて立つ墓は、“お藤さんの墓”として今も地元の人々に大切に守られています。
※墓所内にはお入りいただけません。道路からのお参りになります。


阿弥陀如来を表す「キリーク」、
その下に「藤譽光秀大姉」、
左右に「元和八年壬戌/十二月八日」と刻む
