由緒
佐保丘陵の南麓に位置する興福院(こんぶいん)は山号を法蓮山(ほうれんざん)といい、創建当初は平城京右京4条2坊の“菅原伏見の里”、現在の近鉄尼ヶ辻駅のすぐ東にありました。中世以前の寺史については判然としませんが、寺伝には、聖武天皇の御学問所を天平勝宝年間(749~57)に和気清麻呂が賜り、弘文院と称する一族の学校とした跡であるともいわれます。しかし平安時代末の『七大寺日記』(嘉承元年〈1106〉)や『七大寺巡礼私記』(保延6年〈1140〉)などには藤原百川(藤原不比等の孫)の建立とあり、西大寺の南に位置して保延6年には「興福院」と呼ばれていたこと、本尊は丈六の金銅薬師如来像であったことなどがうかがえます。

興福院跡とも伝える
中世に衰退していた興福院ですが、安土桃山時代の天正年間(1573~92)、大和国郡山城主であった筒井順慶の一族、自慶院栄譽心慶尼によって再興がはじまります。2世智雲院藤譽光秀尼は、かつては順慶の後に郡山城主となった豊臣秀吉公の弟、大納言秀長公の側室であり、夫君没後に光秀尼として尼院を継承しました。そのため秀吉公からは寺領200石の寄進を受け、阿弥陀三尊像を本尊に伽藍を復興します。
大坂落城後、再び衰微した寺の再興のため、3世秀譽光心尼は3代将軍徳川家光公上洛の際に旧領の復活を願い出て、小堀遠州(1579~1647)らの取りなしにより、寛永13年(1636)に寺領200石侍2人扶持の朱印が下付されました。そして遠州の手により、本堂や客殿、庭園、大門が造営されます。

光秀尼墓(中央)
寛文5年(1665)、4世教譽清信尼のとき、4代将軍徳川家綱公から山林60間四方と長さ160間、幅4間の参道を寄進され、元禄年間(1688~1704)にかけて、菅原伏見の里から現在の佐保の地に伽藍を移しました。以後、徳川幕府の終焉までその庇護を受けましたが、明治初年に禄を失い、同6年(1873)浄土宗知恩院の所轄となり、別格寺として今日まで法灯を受け継いでいます。

