興福院と茶の湯
江戸時代の興福院再興にあたり伽藍の造営を行ったのは、建築や作庭に才能を発揮した大名茶人、小堀遠州と、遠州らと交友を重ねながら茶の湯の道に生きた久保権大輔利世(長闇堂)でした。大正時代に入って、長闇堂人気が高まり墓碑も発見されると、興福院に長闇堂を復原するため、奈良の数寄者らが「長闇堂会」を発足しました。昭和3年、参道の東側に3棟の茶室の復原・移築が完成し、以後、長闇堂会として年2回の茶会をはじめ、さまざまなお茶席が設けられてきました。

興福院の茶室

長闇堂
昭和2年(1927)11月復原。7尺四方、宝形造。そもそも長闇堂とは、久保権大輔利世(長闇堂)が営んだ七尺堂で、鎌倉時代の東大寺復興に尽力された大勧進重源上人の御影堂が改築された際、古材を譲り受けて結ばれた庵です。利世の没後、七尺堂は転々とし、やがて東大寺龍松院の公慶上人(1648~1705)に寄進されました。東大寺の江戸期再興に尽力した公慶上人は重源上人を崇敬していたため、ゆかりの古材をたいへん喜ばれましたが、誤って火にくべられてしまい、再建の機を永久に失いました。
興福院が復原の地に選ばれたのは、利世が興福院再興に関わっていたこと、また公慶上人の実姉が興福院4世清信尼であったためです。興福院には公慶上人が奉じた釈迦如来坐像や書状が伝わっています。新しい長闇堂は東大寺の古図をもとに設計され、宝珠には長闇堂復原に至る由緒が刻まれました。天井には公慶上人の勧進帳を貼り、歴史を偲ぶよすがとしています。方丈に掲げられた「長闇堂」の額は、奈良・圓照寺の門跡でもあった伏見宮文秀女王のご染筆で、復原にあたって関藤次郎から寄進されました。

龍松庵
古田織部好みと伝える八窓庵(現在は奈良国立博物館に所在)を、公慶上人が自坊の龍松院に写した四畳台目の席で、興福院の本席です。明治初年に実業家の関藤次郎が築いた依水園後園に臨渓庵として移築されましたが、長闇堂復原に際して昭和3年(1928)に寄附、移築され、龍松庵と改名しました。亭額「龍松」は公慶上人の筆によるものです。『長闇堂記』の記述にちなみ、寺では茶事を行う際、公慶上人から賜った釈迦如来坐像を安置することが慣わしとなっています。

雲笑亭
奈良の荒池の南、浅香山の裾にあった「浅香亭」が、長闇堂復原にあわせて、昭和3年(1928)に石﨑家から寄附、移築されました。亭額「雲笑」は久保利世の筆によるものです。

久保利世と境内墓碑
「長闇堂」を結んだ久保権大輔利世(1571~1640)は、春日社の貧しい神人(下級神職)の家に生まれました。次男ゆえ神勤めとは無縁で、天正15年(1587)の北野大茶会への随行を機に茶の湯を志します。千利休の袋師・宗哲に仕覆の袋縫いを習い生業とし、よい茶道具に触れて目を養いながら、松花堂昭乗や小堀遠州ら一流の茶人との交友を深めました。遠州は、「鴨長明は物知りにして智は明らかであり〈明〉の字に相応しいが、利世は物を知らず智に暗い。方丈を好むなら〈長〉の字を借りて〈闇〉がよい」と、七尺堂に「長闇」の2字を贈りました。『長闇堂記』には茶人たちとの交流や当時の茶の湯の世界が生き生きと記されています。
利世の墓碑は長らく行方がわかりませんでしたが、これを探そうとした有志のひとり、山田治兵衛によって大正14年に発見されました。墓碑には「寛永十七庚辰 六月廿八日」の文字が刻まれており、利世の忌日も明らかになりました。利世の墓碑は興福院に納められ、雲笑亭の北側に建てられています。

